ことばののろい
お久しぶりです。久しぶりすぎてちょっと戸惑い気味ではあるけれど、なんとなく記事を書きたくなったというか、ちょっと頭の中を整理したいな~とふらっと立ち寄ってみました!私にとってここは、そんな気軽に立ち寄れるところであればいいな・・・。
さて、いきなりですけれど、ちょっと私の思ってることとか昔の話とか。
以下、とっちらかった文章になると思います・・・。
言葉は人と人をつなぐものだと思っているけれど、人から人を遠ざける、縛る、あるいは自分にかかる呪いだと思っている。
例えば「私は不幸だ」と言う言葉の呪い。
今では少なくなった言葉だけれど、幼い私には呪いのような言葉だった。よく母が口にしていた言葉だった。
別に言うのは自由だと思うし、誰にだって主張する権利はあると思う。幸か不幸か決めるのも周りではなく自分自身だと思う。あくまで私個人の意見だだけれど。
でも私にとって、それは聞きたくない言葉の一つでもあった。
ちょっと昔の記憶を探ってみると、よく母はその言葉を私の前で言っていた。多分、多分だけれど父や祖父や兄の前で言っても、なにもないか、言い返されるかと取り付く島もないから、私の前で言っていた事が多かったんじゃないかなあ、なんてぼんやりと思う。
始めのうちは母が可哀想だと思っていた。
何回かすると、可哀想だとおもいつつ鬱陶しくなっていった。
聞き飽き始めるころには「私は不幸だなんて思わないようにしよう、幸せだと思うようにしよう」と思い始めていた。
そんな考え方になっていったせいか、「あなただけなんかじゃないのよ」なんて、誰かから言われた日には涙が止まらなかった。なけなしのプライドがズタズタにされた気分だった。
それでも私は幸せなんだ、とずっとずっと思い続けた。
母がいて、父がいて、祖父がいて、兄がいて。いるだけで幸せじゃないか、いい生活をさせてもらって幸せじゃないか。物語のヒロインじゃないけれど、その日一日の「幸せだったこと探し」もやった時期があった。多分「幸せであること」に必死だったのだと思う。
ある日、それは私の長年の悲しみと苦しみと痛みの蓄積による爆発で、もう幸せか、不幸かもどうでもよくなったけれど。
でもある意味爆発してよかったのかもしれない。前よりは「幸せであること」に固執しなくなったのだとしたら。言い聞かせて、しんどさで身動きとれなくなるよりはいいのかもしれない。いまだに「幸か不幸か」に取り付かれることはあるけれども・・・。
人にはいろいろな呪いがあって、時に言葉に振り回されたりする。けれど、そんな言葉だからこそ、丁寧に扱っていきたい、という思いもある。
なんて、そんなとりとめもない話。
ヘイト
こんばんは、本格的に冬へと近づきつつある今日この頃。
秋は一番好きな季節ですが、いちばん寂しい季節でもあります。なぜって、心臓がねじ切れるくらいに悲鳴をあげるからです。
寂しい、さみしいと。
何故こんな時期にさみしい気持ちが強くなるのかなあ、と毎年首をひねっているけれど答えは出ず。ただただ孤独ではないはずなのに、一人でもないはずなのに、独りで膝を抱えて痛みに耐える、そんな季節です。
そんな秋。今年は今までにないくらい他人へのヘイト値が高まっています。
今年自分がやっと一般的な家庭とはいいがたいところで、育ってきたという自覚を拒絶しながらも少し受け入れつつあるからでしょうか。
人が憎いです。
みんないなくなればいいのに。
お願いだから消えてくれ。
みたいなことを毎日毎日考えては自己嫌悪に陥っています。
そんな自己嫌悪を抱えつつ、生きるには私の心は強く作られていないようなのでした・・・なんやかんやで自傷行為に走ったり、薬を用法容量を無視して、多く飲んでしまったりと・・・
馬鹿だな、と思いつつやるから本当に救いようのない馬鹿としか思えず、自分の存在価値も見いだせない毎日。
多方面の人にすごく申し訳ない気持ちでいっぱいなはずなのに、ちょっとしたことがあると繰り返してしまう。
・・・早く春がくればいいのになあ。
何か日記とか言うよりも愚痴みたくなってしまってすみません。次回からはちゃんとした記事が書ければいいな。
ではまた。
開設してから二か月ちょい。
こんばんは。
開設してから2か月ちょいになってしまった。5月も暑い暑いとぼやいていたが、7月に入ってからそれが口癖になるような暑さで、一日の大半はクーラーのある居間で、創作活動(と、言えるのだろうか)をして過ごしている。
さて、本題は変わるけれども。
ここ二か月は大体家にいるのがつらくて、近くのファミレスに行ったり、友人の家にとめてもらったり、いろいろと周りに迷惑をかけるようなことばかりして過ごしていた。
泊めてもらったり、悩みを聞いてもらったり、あるいは、遊びに誘ってもらったり・・・。周りの人たちには本当に感謝の一言しかない。
改めて周りに恵まれていると思った。心の底からうれしかった。
しかし、そんな幸せの余韻に浸っている時でも、ちらつくのは不安だ。
例えば、母と行ったディズニーランド。6月に夜行バスで揺られながら行った。
実は2,3日前にはもうすでに不安でいっぱいで、それこそちょっとしたODやリストカットやら首絞めやら・・・不安を塗りつぶすようにやりたかったことも我慢して、なんとか、目的地に着くこともできた。
しかし、ここで本音を話すと・・・。
母には悪いからこの場でしか言えないが、本当に心の底から楽しめなかったのだ。
現地についても何か足が地についておらずふわふわとした気分だった。
アトラクションに乗ってもいつか不安がやってきて、「なにやってるんだろう」と冷めた気持ちになることしばしば・・・。
私がまだ年齢的に子供と言われる頃にも連れて行ってもらったことがある。しかしその頃はまだ楽しめた。周りがざわざわしていてもそれさえ楽しみの一つだった。
今はどうだろう。単純に楽しむことができない。私はそれがとても悲しくてたまらなかった。涙は出なかったけれど。
しかし、行って本当に楽しめなかったことは事実だけれど、思い出作りができたのは、素直にうれしかった。
だから、今回の旅行は、私にとってはきっといいことだったのだろう。あまり悲観せず、そう思うことにした。
ここまで書いていて、再び母に対して罪悪感でいっぱいになってしまった。母には笑顔でいてもらいたいので、こういったことはこの日記以外では漏らさないことだろう。
でもいつか、私が楽しめるようになった暁には、ぜひともまた行ってみたいと思う。
散文的な自己紹介など
こんばんは、はじめまして。瑛と申します。一言で自己紹介をするならばオタクです。
広く浅い知識の方ですが・・・(いわゆるにわかオタクと言うやつでしょうか?)
この度、さる言葉に感銘を受けてブログを開設したのですが、なかなか文章というのは考えるのが難しいですね。きっとこの文章を投稿して、明日になる頃にはとても恥ずかしく、戦々恐々とした思いになっていることでしょう・・・。まあ、明日になったらなったで、なんとか明日も乗り越えている自分を期待しつつ。
(なんか変に堅苦しい挨拶だなあと思いながら)
ちょっと疲れてきました。自分から挨拶するの慣れてないからかなあ。
すみません、ここから敬語がなくなります。
ブログを立ち上げた理由としては、自分の本音がなかなか言えないからであったり、日頃悲しかったことも打ち明けられない・・・そんなことにフラストレーションが溜まりに溜まって爆発したものが、他人を傷つけてしまわない防止策であったりする。あとは日々、こうして自分の考えを書き溜めて、診療の際に伝えたりする手段であったり。
まあ、要するに自分のためということで!
考えは十人十色(多分)であるため、文章や考え方に解釈に違いがあったりするのは当然の事ではあると思うけれど、それが怖くて出せなかった、「悲しかった」という自分の感情を、徐々に外に出していけたらなあ、と思っている。
ではまた明日以降から、よろしくお願いしたい。